佐々木裕太の自己紹介〜22歳までの軌跡〜

シェアする

スポンサーリンク
Pocket

前回の私のストーリーを読んで頂けましたか?
文章なんてあんなに書いた事なかった(4,000文字でした。)
のでどうだったのか?とちょっと心配です。

でも、あれは今までのありのままを書きました。
(多少記憶が曖昧なところもありましたが大きくはズレいないです。)

ではでは続きを書きますね。

〜専門学校〜

高校卒業後は
高校2年生の時から決めていた
「国家資格 柔道整復師」を取る為の
専門学校へ入学を致しました。

あっ!
進路が決まるまでに
ちょっとした物語があったので書きますね。

私は学校の中では決して頭が悪かったわけではなかったので
高校2年の冬までずーっと東京理科大に行って
人の役に立つロボットや機械を作ると言っていました。

がしかし!!

運命の時が来ました。

ある日のアルバイトの日のことです。
一緒に働いていた先輩が
腰痛(ヘルニアの再発)で倒れ込む
という事件が起きました。

その時に
看病する為に一緒にいたのですが、

何にも出来ませんでした。

ただ
「大丈夫ですか?」「お水入りますか?」と言って
腰を撫でるだけ・・・。
当たり前ですよね!

弱冠16歳のやつが何か出来る訳がないのに、

こいつ(←俺)は何を思ったのか?

何も出来ない自分に腹が立ち、
とても悔しくなってしまったのです。

目の前に苦しんでいる人がいて
大丈夫な訳ないのに「大丈夫?」しか言えない
そんな自分が無力で悔しかったのです。

時間が経ち
少し痛みが落ち着いて来て歩けるようになり
病院へ自分の足で行く時に
「裕太ありがとう」と言ってくれました。

何にもやってないのに
また
生意気なことに
「嬉しくなっちゃったのです。笑」

ほんの数分の出来事が
私には途轍もなく
長く濃厚な時間が過ぎて行きました。

「この上なく悔しく思い、
二度とこんな思いはしたくない」

「こんなありがとうがもっともらいたい」

この2つの感情が私を襲ったのです。
そこからは決断は早かったです。

「人を救う」
これが自分の使命のように感じて
進路は確固たるものになりました。

そうすると黙ってないのが学校でした。。。

職員室に呼ばれ先生6人に囲まれ
「なぜ?大学に行かないのか?」と問い詰められました。
ショックでしたね。
先生が悪いのではなくそういう風習の世の中に対してです。

でも、
一切曲げずに
専門学校へAO入試を経て入学しました。

そんな物語がありました!!!

それで
入学をしてそれと同時に早く経験の積みたい
一心で接骨院へアルバイトをしました。

1つ目は全く反りが合わないので2週間で辞めました。
自分の理想とすることが出来ないと直感で思ったからです。
(本当に生意気ですね。笑)

自分の軸は決まっていたので
合わないところにいるほど暇がないので
即辞めましたね。

2つ目
ここなら出来ると思い必死で食らいつきました。

同期は全員が年上で
自分は体の知識もスキルも人間力も全てが完敗の状態でした。

いや〜
マジで悔しかったです。
ここまでの底辺からのスタートは
今までの短い人生の中で味わったことがなかったからです。

当然患者さんは触れない。
先輩の先生が話していることは訳が分からない。

日々が新鮮で刺激的でした。
が毎日劣等感を感じていました。

でも、
自分の馬鹿なところは
今までやればなんとかなって来た経験から


「俺は出来る」という
根拠のない自信だけはありました。

毎日学校と両立しながら仕事して
診療終わったら深夜1時ぐらいまで残って練習をしまくり、
8時からまた仕事をしての毎日を6ヶ月間はこんな生活をしていました。
今思うと先輩に本当申し訳ない事をしましたね。
ごめんない。

学校で勉強するのではなく
寝まくるという悪い事もしました。
起きていると友達が驚くという
学校ではありえない現象が起きていましたね。笑

努力は実って1年半で
院の2番手まで登りつめ
3年目には院長となりました。

学校を卒業して
院長になってからが本番でした。

今までの下積みは全く楽だった事を
今となって分かります。

会社内でも強烈なコミットを
叫びすぎて死にかけましたね。笑

私にはあれぐらいやらないと覚
悟と決められなかったから
丁度良かったのかも
しれないですね。

人が付いて来ない事がこんなにも
苦しいという事を疑似体験出来ました。

私が丁度良いと言った理由は
弱冠21歳の若造が人の上に立ってまとめるには
それ相当の覚悟がないと出来ないと思っているからです。

それに、
私は自分の事しか考えない
「自己中」でしたので余計ですね。

「自分のスキルの為」「自分の患者様の為」
と言った感じでトコトン自分の為にやっていました。

それがスタッフの人生を背負う事になる。
なんて想像が出来なかったです。

でも、
このころはまだ浅い覚悟だった事を
今では思います。

それで
念願だった
佐々木院長のチーム組成が始まりました。

長くなるので
1年目での大きな出来事は3つあるので
それだけを書きますね。

院長になったこの2年間が
一番濃厚な人生であったことは間違えないので
本書けるかもしれない。笑

1つ目は

1年経たずにして
院のスタッフが会社の異動や退社があり
10名近くの入れ替わりがあったことです。

これは正直キツかった、、、。
教えて患者さんに結果を出せるようになるといなくなり、

繰り返す日々。。。

患者さんにも
「新人の養成所なの?ここは」
と言われるようになるぐらい
入れ替わりが激しかったです。

でも、
そこ学んだ事が

人財育成は十人十色で

指導の仕方も十色、

メッセージを伝える言葉も十色、

接し方も十色である事です。

この経験を1年以内に出来た事は
大きな糧となっています。

これを元にうまく行き始めたのが2年目からでした。

良いスタッフにも囲まれ
若くて粗っぽい院長を見守ってくれて
一緒に協力してくれるスタッフの人柄にも助けられ
素晴らしい院長2年目を送る事が出来ました。

2つ目は
2月くらいかな?
スタッフ全員がインフルエンザになり
院の診療を受付さんと私の2人で行った事
(ヘルプを頂きましたが基本は2人でした。)

この時にスタッフの偉大さに気付きました。

日頃どれだけ助けられていたのか!痛感しました。

これだけいつも助けられていたのだから
恩返しはしっかりとしないといけない!!!
ここでしっかりと恩返しが出来ないなら

将来、
人をまとめてチームを作る(会社を作る)事
なんて出来ないと確信しました。

本や人から言われていましたが、
体験しないと信用しない自分は何処かで疑っていましたが
この経験を経て「感謝」の必要性がやっと腹に落ちました。

ここから
自分では変わったと思っていて
私の中でこの時に
「患者さまと同じぐらいスタッフに責任を取る事!」
と覚悟を決めた瞬間でした。

いや責任の意味が違いますね。

「患者さん」には
健康を通して体を治す事への責任。
私に大切な時間を使って体を治す為に
頼ってきてくれている事に対して
その期待に応える義務を果たす責任ですね。

「スタッフ」には
これから家族より、友人より、恋人より、大好きな人よりも
多くの時間を共有していく人生の仲間として

院長である以上は1分でも1秒でも有意義で
意味のある時間を過ごして頂くかどうかは院長の力量次第だ!

と思っていて人生において
私が院長でみんなと共に過ごした時間が一番良かった!!
と言われる事が一番の私の目標になっていました。

「時間=命=有限」
常にこの方程式が私の人生において最重要に並ぶものです。

私は勝手にスタッフの時間を預かっているつもりになっていました。

身勝手ではありますが、
その責任を負う覚悟をしました。

 

3つ目は

私が院長をさせて頂いている院が
15周年を迎えるにあたってイベントを行なった時です。

人生で初めての事ばかりをやりました。

チラシを配ったり、近隣のお店に挨拶をしたり、
イベントで大勢に話す内容を決めたり、
スタッフの配置を考えたり、役割を考えたり、
動きを考えたり、来て頂いた人にどうおもてなしをするのか?

など、
いつもの仕事では体験出来ない事を
1から作る事が出来たのは大きな経験になりました。

1から作ることの楽しさ・大変さを色々知れました。
自由にやらせてくれた会社には感謝の一言です。
「ありがとうございます。」

このイベント後

私は社会人史上最高の涙、院長辞退と退職を考えた
大事件が起きたのですが、

これはお蔵入りということで割愛しますね。笑

2年目は
スタッフの配属も安定をして1年間同じメンバーで出来たので、

トコトン交流をしてチームワークを良くする為には
どうすれば良いのか?

人を成長させるにはどう接すれば良いのか?

院が患者様から選ばれるようになるにはどうすれば良いのか?

会社の方針に従いながら出来る範囲で試行錯誤しました。

とても充実した2年間でした。

今年3年目に突入しています。

どんな成長が出来るのか?
楽しみですね。
(すでに新しい体験をしているので1年後感想を踏まえて書きますね!)